SSブログ

ドラマ「命ある限り戦え、そして生き抜くんだ」のモデル ペリリュー島玉砕戦と中川州男大佐【動画】 [奇跡の物語]

ドラマ 命ある限り戦え、そして生き抜くんだ モデル ペリリュー島 玉砕 戦 中川州男 大佐 金曜プレステージ 上川隆也 動画

終戦記念ドラマ「命ある限り戦え、そして生き抜くんだ」が話題になっていますね



Bumo73oCQAEPWwd.jpg
※出典:http://twitter.whotalking.com/topic/%E4%B8%8A%E5%B7%9D

今回はこのドラマ命ある限り戦え、
そして生き抜くんだ」のモデルとなった
ペリリュー島での玉砕戦中川州男大佐
ついて紹介したいと思います。



スポンサーリンク









ペリリュー島玉砕戦とは!?


1944年7月7日、サイパン島を守ってた
日本軍は崩れアメリカ軍に奪還されてしま
いました。

そしてアメリカ軍が次に狙ったのがパラオ
だったのです。

もともとパラオはドイツ領だったのですが、
1919年第一次世界大戦にドイツが敗れた為、
国際連盟の委任を受け日本が統治するよう
になり、それ以来コロールに南洋庁を設け
たり行政を行い日本軍の重要基地が諸島内
に点在していました。

その重要基地がある島のひとつである小さ
なペリリュー島に満州からきた中川州男
軍大佐が守備隊の総指揮官として着任しま
した。

ペリリュー島には飛行場があり、海軍航空
隊がいたのですが、毎日のようにアメリカ
軍から爆撃を受けていたので飛行場は破壊
され、航空戦力は戦力外となっていました。

そんな状況下で着任した中川は、ペリリュ
ー島内をくまなく歩き回り洞窟や鍾乳洞な
どを含めた地形を把握していました。

当時の日本軍大本営は水際作戦という、敵
が上陸してくると同時に攻撃を仕掛けると
いう作戦に力を入れていたのですが、中川
はペリリュー島では水際作戦よりも持久戦
が有効になると考え、洞窟を利用し地下要
塞を構築していき、トーチカ要塞のように、
島全体を要塞にしてしまったのでした。

また、サイパンでは島から避難し遅れた約
20000人もの民間人が戦火に巻き込まれた
ことを知っていた中川は、同じようになら
ないために、ペリリュー島の島民を全て他
の島へと避難させました。

このペリリュー島での戦いは、今後の戦局
を左右する重要な意味を持っており、でき
るだけ長く守り抜くことで日本軍全体が十
分に立て直しをして準備をすることが目的
とされていました。

つまり、戦い自体は負けることが前提であ
り、時間をどれだけ引き延ばそうとも最終
的には必ず玉砕するという玉砕戦という位
置づけだったのでした。

その為ペリリュー島に配備された守備隊は
陸軍5332人、海軍3646人の合計8978人と
いうサイパンやグアムに比べて極端に少な
い兵力しか配備されませんでした。

1944年9月12日早朝、ペリリュー島の沖合
13kmの位置に戦艦3艘、空母11艘、巡洋艦
20層、駆逐艦30艘、輸送船50艘・・・合計
200艘以上もの大艦隊が取り囲むように配
備され、アメリカ軍による艦砲射撃と艦載
機からの空爆が一斉に始まりました。

アメリカ軍の師団長リュバータス少将は
このペリリュー島を4日で占領すると公言
しており、ものすごい勢いで砲撃を行なっ
てきたのでした。
それは3日間で砲弾を17万発も打ち込んだ
と言われていることからも凄まじかったこ
とが伺えます。

この猛攻撃によりペリリュー島は焼き尽く
され、ジャングルも丸裸になってしまった
のですが、中川が作り上げた地下要塞には
傷ひとつつきませんでした。

9月15日、アメリカ軍は砲撃をしていても
あまり効果がないと考え、上陸するために
300艘の大群で上陸を計りました。

これに対し、中川が事前に機雷を仕掛けて
いたため、アメリカ軍は機雷に次々と接触
し、吹き飛ばされていきました。

これと同時に日本軍は猛攻撃を開始しまし
たが、アメリカ軍も艦砲射撃に援護され、
徐々に上陸をしてきました。

海岸線での激しい接近戦が行なわれ、多く
のアメリカ軍兵士の死体で海岸は埋め尽く
され海は真っ赤に染まっていました。

20140605-91.jpg
※出典:http://rakudoku-earth.jp/hippon-daisuki-palau-2/

この日本軍の抵抗にアメリカ軍は一旦は
引き下がりましたが、物量で圧倒するア
メリカ軍は再び上陸をしてきて、兵力の
差がありすぎたために日本軍は徐々に圧
されてきてしまいました。

それでも日本軍は怯むことなく、少人数
の斬り込み隊による夜襲を繰り返しました。
また、地の利を活かしたゲリラ作戦で、ア
メリカ軍はいつどこから襲いかかられるか
わからない恐怖に精神的に追いつめられて
いきました。

9月22日、日本軍はパラオ本当から援軍を
送りましたが、途中でアメリカ軍に見つか
り海と空の療法から激しい攻撃を受けまし
た。そのため、船が座礁してしまい、援軍
は完全武装をしたまま海岸まで歩いてきた
のでした。

このような激戦が続く中、11月15日には
ペリリュー島守備隊に対して昭和天皇から
の10回目のご嘉賞のお言葉が電報で送られ
日本兵たちは感激し涙を流しました。

そして、副官である根本甲子郎大尉は中川
に総攻撃での玉砕出撃をしたいと申し出ま
したが、中川はこれを受け入れずに
「諸君の気持ちは分かるが、軍人は戦うの
が務めである。最後の最後まで務めを果た
さなければならん。玉砕するより、最後の
一兵になるまで戦い抜き、最後の務めを続
けよう。」と指示を出したのでした。

11月22日、アメリカ軍はものすごい砲撃と
火炎放射器をもって主陣地へと進んできま
した。

中川はアメリカ軍に包囲され、パラオ本島
の集団司令部に軍旗と機密書類を処理した
後、玉砕する際には「サクラ」という暗号
を連続し発信するという電文を送りました。

それから2日後の11月24日朝、中川は根本
に「髭を剃ってくれ」と頼み、覚悟を決め
た中川を見た根本は涙をこらえながら軍用
ハサミで中川の髭を剃りました。

そして午後4時、中川は司令部に向けて
サクラ、サクラ」と打電をしました。

中川は兵士たちをねぎらい、根本たちと共
に洞窟の奥へと行き、今後の指示を出し、
軍旗に深く一礼し、日本本土の方角にも
深く一例したあとに、切腹をしました。

中川の自害をもってペリリュー島は陥落し
ましたが、当初数日しか持たないと考えら
れていたペリリュー島が72日間も持ちこた
えたのでした。
しかも1人の民間人の犠牲も出しませんで
した。



中川州男大佐とは!?


このペリリュー島守備隊長を務めた中川
州男とはどのような人だったのでしょうか。

1898年1月23日、熊本県で小学校の校長を
務める中川文次郎の三男として生まれまし
た。

1918年5月に陸軍士官学校を卒業し、12月
には歩兵第48連隊に配属されました。

その後、数々の歩兵隊を歴任し、盧溝橋事
件のあと大隊長を務めていた歩兵第79連隊
が動員され、天津から山西省の保定会戦で
の功績を認められ、陸軍中佐へと進級しま
した。

その後1943年には大佐に昇進し、所属して
いた第14師団が満州から南方へと転用され
ることになり、中川はパラオ諸島へと配属
されました。

928bce96.jpg
※出典:http://www.shinjuku-hyakunin.com/archives/52041654.html

パラオ諸島のペリリュー島で守備隊長とな
った中川は、赴任前に婦人に任地と任務を
聞かれた時に「永劫演習(帰って来れない
任務)」とだけ伝えました。

1944年9月15日にアメリカ軍がペリリュー
島に上陸し、日本軍は必死に抵抗するも、
圧倒的な物量の差の前に日本軍は苦戦をし、
11月24日に日本軍は総攻撃による玉砕を決
定しました。

中川はここで自害をし、副官の根本を中心に
残った兵士55人での「万歳突撃」を行い、
11月27日にアメリカ軍によってペリリュー
島が占領されてしまいました。

中川は自害をした後に2階級特進をして陸軍
中将となりました。

ペリリュー島でのアメリカ軍に対する組織
的抵抗がアメリカ軍を苦しめたことで、
その後の硫黄島や沖縄での戦いの参考とさ
れアメリカ軍に効果的な損害を与えること
に成功してきました。


ペリリュー島玉砕戦―南海の小島七十日の血戦 (光人社NF文庫)

愛の手紙―ペリリュー島玉砕 中川州男大佐の生涯



スポンサーリンク






nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。